【音楽と旅行記】夢破れ・・・帰国後の生活と作曲への想い

こんにちは。あや姉です。本記事は、前回書いた瀧廉太郎を知る旅の記事の続編です。今日は、瀧廉太郎が東京音楽学校を卒業した以降の人生から振返り、思いを馳せたいと思います。

 

“ただ大命を全うするために努力する”


廉太郎の前に幸田露伴の妹である幸田延と幸田幸が既に留学していたので、廉太郎は音楽留学生としては3人目になりますが、男性としては初めての音楽留学生です。幸田幸の留学が決まった際にも、なぜ廉太郎でないのかと騒ぎ立てる人もいたほど、廉太郎の実力は音楽大学校内外に広まっていました。(ただ、廉太郎自身としては、幸田幸の留学については「正当な順序だ」として、騒ぎ立てる人をけん制しています。)そして、幸田幸の留学から2年後、ついに廉太郎に留学の命が下ったのです。日本出立の前に開かれた壮行会で、廉太郎はこんな言葉を残しています。「不肖、今回の留学は、国家の命であると共に、また神の命でもあります。『音楽のため』、この一語の前には、私は死も辞せず当たるの覚悟をもって渡航いたします。」「ただ大命を全うするために努力するといふのが、私が命をうけて以来の考へであります。」武家の長男として生まれた廉太郎らしい情熱と使命感に満ちた言葉です。

 

ライプツィヒ音楽院への入学 ~留学直後の希望と影~


1901年4月に日本出国、廉太郎は21歳でした。そして半年後、1843年にメンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院に入学することが決まりました。音楽院への留学が決まるまでの半年間は、語学や音楽の勉強に加え、コンサート会場にも足しげく通ったそうです。ショパンの楽譜編纂で有名なパデレフスキーの演奏も生で聴き、日本の友人に対して「さすが上手なり。されど驚くほどの音楽者ならず。」などと批評を送っています。しかし、ヨーロッパの冬は東京の冬よりも寒さが厳しいからでしょうか。やっとの思いで音楽院入学を果たした1ヵ月半後に、風邪をこじらせ、病院療養することになりました。結核です。これも、11月25日夜に行われたオペラ『カルメン』観劇後のことでした。

 

志半ばの帰国と更なる悲劇


結核による入院はライプツィヒ音楽院に入学して1ヶ月と3週間に起こった悲劇でした。休学手続きの上、しばらく病院で休養するものの、回復の見込みは薄く4ヶ月の療養の後に日本への帰国することになりました。廉太郎にとってどれほどつらいことだったかは想像に固くありません。帰国した後は声楽曲「別れの歌」「水のゆくえ」を作曲します。「別れの歌」はドイツから帰国する船の中で発想されたといわれ、重たく悲壮感に満ちたメロディーが印象的です。帰国後も体調は一進一退を繰り返していたため、関東近郊で療養地を探していた矢先、更なる悲劇が廉太郎を襲います。幼少の頃から廉太郎を大変に可愛がり、ドイツからの帰国後も生活面を含めてサポートしてくれた伯父の大吉が脳卒中によって42歳の若さで急死したのです。大吉の妻は、廉太郎の体調と心的負担を鑑み、実家のある大分県に帰るように促します。

 

大分県での生活と最期


伯父・大吉の死を受けて、廉太郎は両親と妹・弟が住む大分県稲荷町に戻ります。体の調子がいいときは、兄弟の面倒を見たり、牧師先生の自宅に通いお話を聞いたりしたそうです。廉太郎の人柄や帰県時の様子について、妹の安部トミは「元気そうに見えた。子供心に、兄が帰ってきたことがただ嬉しかった。」と語っています。しかし、家族の看病の甲斐なく、廉太郎の体は病に蝕まれ、1903年6月29日に肺結核のため23歳の若さで永眠しました。生前、死期を感じた廉太郎は、両親を枕元に呼び寄せ、母に看病の労苦を謝し、父には心配をかけていることを詫びたといいます。

 

遺作ピアノ曲「憾み」


23歳で夭逝した廉太郎の現存する作曲作品は34曲ですが(廉太郎は結核を患っていたことから、死後多数の作品が焼却されたといわれています)、その最後の作品が、ピアノ曲「憾み」です。衝撃的なタイトルですが、「憾」は“後悔”や“心残り”の感情を表す漢字です。1903年2月14日、亡くなる4ヶ月前に書かれた曲です。曲はニ短調から始まり、まさに「憾みの気持ち」を感じさせるメロディーです。中間部は軽やかに転調し、廉太郎が幼い頃、純粋に音楽を楽しんでいたであろう時代を想像させます。竹田の岡城址でヴァイオリンを弾いた思い出、小学校では尺八の名手として有名になったこと、東京音楽学校への進学について初めて父の許しを得た日のこと。廉太郎の生涯を知るほどに切なく、しかし優しく穏やかに包み込まれる箇所です。そして、主部の「恨み」のメロディーに引き戻されたかと思いきや、突如、急転直下のごとく音楽が展開します。憾み、苦しみ、悲しみ、悔しさ、不甲斐なさ、あるいは同世代への恨めしさ・・・そんな感情が一気に激昂したかと思いきや、突如その感情を断ち切るかのような決意を持った8つ和音で音楽が締めくくられます。病にかかり思うようにいかない自分の人生を受け入れつつ、それでもなお消化しきれない悔しさをありったけ音に込めたような楽曲です。

 

瀧廉太郎の生き方から見る日本人の精神性


廉太郎は若くして亡くなっただけに自伝や資料が少なく、数少ない資料の中でその人柄や音楽性を解釈しなければいけません。ただ、どの資料を読んでも、廉太郎の温厚さが記されています。それは、結核を患い、故郷での療養中も変わらなかったそうです。生まれ持った性格もあるでしょうが、もしかしたら瀧家(元武家)の長男であるという自負が、感情をストレートに出すことに抵抗を感じさせたのかもしれません。個人的には、だからこそ、音楽がその感情のはけ口となり、「憾み」のようなストレートに人の心に訴えかけるような楽曲ができたのではと思います。私生活で感情を素直に表現できることも素晴らしいですが、自身の感情は押し殺してでも、周りの人の気持ちや事情を優先する優しさや繊細は日本人ならではの価値観だと思います。廉太郎が残したピアノ曲「憾み」はそんな日本人の精神性が裏返しに反映された作品だと感じました。

 

「荒城の月」の作曲イメージとされる岡城址


大分県竹田市には「岡城址」という城跡があります。廉太郎の幼少期には既に荒廃しており、子どもたちの遊びスポットとなっていました。小学校から帰宅すると、廉太郎は毎日のようにヴァイオリンを持って岡城址に出かけ、友人たちの前で演奏披露したと言われています。岡城址には廉太郎の記念像があり、高台から(おそらく)あまり当時と変わらないであろう山々の景色が広がります。実際に瀧廉太郎が、歩き、学び、生活した土地に赴くことで、今まで耳にしていた楽曲の風景や背景をより具体的にイメージできるようになり、旅も一層深く楽しいものとなりました。

ただし、アクセスが・・・(涙)最寄駅の豊後竹田駅からは自動車での移動となります。タクシーの本数も多くないのでレンタカーがお勧めですが、免許を持っていない方だとなかなか行きづらい場所ですね。。。県外から行かれる方は、ぜひ計画的にスケジュールを組んでくださいね!

作曲家の縁の地を旅すると、楽しさや嬉しさとともに、いつも少し切なさがよぎります。けれど、そんな気持ちも旅行の醍醐味だと思いつつ、これからも音楽家に関連した土地に足を伸ばしたいと思います^^!

 


2018年06月28日 | Posted in コラム, 音×旅 | タグ: , No Comments » 

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です