【観劇レポート】「氷艶 HYOEN 2017 破沙羅」から学んだ“舞台を創る極意”とは?

【写真】170520氷艶・歌舞伎・フィギュア

5月20日(土)~22日(月)に国立代々木競技場の第1体育館で行われた「氷艶 HYOEN 2017 破沙羅」を観て来ました。これは日本初(世界初?)、日本の伝統芸能である歌舞伎とフィギュアスケートがコラボレーションした舞台です。3日間のみの期間限定公演ですが、歌舞伎界からは市川染五郎さん、フィギュアスケート界からは髙橋大輔さんや荒川静香さんがご出演されるなど、大変豪華なキャスティングが話題になりました。そして何より、その2つの世界が融合するとどんな舞台が出来上がるのかが大変興味深く、早速行ってみました!

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「氷艶 HYOEN 2017 破沙羅」

■出演者:市川染五郎、髙橋大輔、荒川静香、市川笑也 他
■脚 本:戸部和久、演出:市川染五郎、振付・監修:尾上菊之丞
■場 所:国立代々木競技場 第1体育館
■公式HP: http://hyoen.jp/

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安土桃山時代から400年以上続く日本の伝統芸能、歌舞伎。


観劇の感想を語る前に、まずは歌舞伎の歴史に想いを馳せてみたいと思います。その始まりは、今から400年以上前、安土桃山時代に活躍したお国という女性芸能者が踊った「かぶき踊」だと言われています。当初は茶屋で踊ることが多く、芸の内容自体も遊女的な色合いが強かったそうです。その後、風紀衛生上の理由から女性歌舞伎が禁止され、成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎」に人気が移ります。しかし、それも程なくして同様の理由により禁止され、現在のように成人男性が演じる「野郎歌舞伎」へと形を変えることになりました。しかし、発展の裏には苦境の時代も・・・。1841年に始まった天保の改革では、人気歌舞伎俳優の江戸追放や俳優の生活規制などの様々な弾圧が行われたのです。また、それまでは江戸の繁華街にあった3つの歌舞伎座を浅草の一角に寄せることも命じられました。これらの弾圧によって一時は衰弱傾向を見せた歌舞伎ですが、三座が一角に集まった利点を活かし、座を超えての俳優の貸し借りをしたことで、逆に歌舞伎界の興行が安定し、歌舞伎の黄金期を迎える結果となりました。古くからの芸能である印象が強い歌舞伎ですが、上記の通り、決して同じ形のまま受け継がれてきたのではなく、時代に併せて様々な挑戦と進化を続けているからこそたくさんの人に愛され400年もの間存続しているのです。

 

フィギュアスケートは明治の文明開化によって日本に伝来されたスポーツの1つ。


話は変わって、氷艶でのコラボレーション相手であるフィギュアスケートにはどんな歴史があるのでしょうか。スケートの起源自体は旧石器時代にまで遡り(!)、マンモスや鹿などの角や骨を利用した獣骨スケートが見つかっているそうです。当時はソリやスキー同様に、物資を運搬する方法の1つとして用いられていたようですが、中世以降はオランダの沼地地帯などで盛んに行われるようになり、17世紀には冬季に氷結した運河をスケートリンク代わりにあらゆる階層の人々の娯楽として発展していきました。この頃には、身分・階級によってスケートの楽しみ方に変化が生じ、農民階級は荷物を素早く運搬するためのスピードスケート、貴族階級は優美さや芸術性を重んじるフィギュアスケートに分岐していったそうです。そんなスケートが日本に初めて入ってきたのは1877年(明治10年)。札幌農学校に勤めるアメリカ人教師が、自身が楽しむためにスケート用具を日本に持ち込んだのがきっかけだそうです。その後、1897年(明治30年)頃に同じくアメリカ人教師であるデブィソンが仙台城の堀である五色沼で子供達にフィギュアスケートを教えたことが、日本にフィギュアスケートが広まるきっかけとなりました。ちなみに、野球は1871年にアメリカ人によって、サッカーは1872年にイギリス人によって日本に持ち込まれました。いずれも明治の文明開化によって諸外国から伝来されたスポーツですね。

 

日本古来の伝統文化と外来スポーツは融合するのか?


発展の歴史を見ても、歌舞伎とフィギュアスケートではその表現方法から実演のフィールドまでまったく異なります。双方の魅力が活かしきれないのでは・・・という一抹の不安も感じつつも、いざ氷艶会場へ。しかしそこでは、着物の重厚な衣装をまとった市川染五郎率いる歌舞伎役者がスケート靴を履いてリンクを滑っているのです。高橋大輔がリンク上で一時停止し、演技の盛り上がりを見せる歌舞伎の“見得”を切っているのです。舞台の3ヶ月前から双方の役者さんが歌舞伎の型やスケート走法を猛練習したそうです。たとえば歌舞伎役者はほぼ毎日歌舞伎の公演があり、オフの日がないことで有名ですが、そんな大忙しな皆さんが各々の夜公演を終えた後、夜な夜なスケートを特訓したというのです。400年もの歴史を背負う歌舞伎役者と世界を舞台に体一つで戦ったプロスケーターの意地と底力を見せ付けられたようでした。終演後、お客さんはスタンディングオーベーション。歌舞伎ファン・フィギュアスケートファンの垣根を越えて会場が一体化した瞬間でした。

 

市川染五郎さんの新境地への飽くなき挑戦心


今回、フィギュアスケートとのコラボレーションという新たな境地を開拓した染五郎さんですが、過去にもたくさんの試みをされています。たとえば2015年・2016年にラスベガスで行われた歌舞伎公演です。ラスベガスを代表するMGMリゾーツのベラージオの噴水前で、歌舞伎と光と映像を駆使したKABUKI Spectacleショーを行い、3日間で10万人を動員したのです。これは歌舞伎公演の運営を行っている松竹株式会社の働きかけがあってのことですが、日本の劇場を飛び出して、噴水やデジタル映像を駆使して、歌舞伎を知らない海外の方でも楽しめる新たな形を模索するのは大変な作業であったと思います。また、新しいことに挑戦するときは様々な障害に突き当たるものですが、それでも敢行した先に賞賛があるとは限りません。それだけでなく、万が一その舞台が失敗すればその影響は自分だけではなく、共演者や協働した企業やスタッフ、はたまた莫大な金銭的損失にも繋がりかねません。座長としての責任・重圧は相当なものだったと思いますが、それでも果敢に挑戦する原動力は「歌舞伎を広めたい」という想い一つではないでしょうか。そんな染五郎さんの純粋な熱意と本気度が、観客の心を揺さぶったのです。

 

自分自身の夢とキャリアを見据えるということ


そんな飽くなき挑戦心で様々な歌舞伎舞台を創造し続ける染五郎さんですが、2018年にはついに10代目松本幸四郎を襲名します。襲名後は全国への襲名行脚でますます忙しくなるそうです。そう考えると、「氷艶」は襲名前の心と時間に余裕がある今年だからこそチャレンジできた舞台でしょうし、7代目市川染五郎として集大成の気持ちで対峙した作品だったのではないかと思います。染五郎さんのように、既にしっかりとした実力とキャリアを築いている方でも、先々を見据えて“今”出来ることを最大限にやりきる姿勢を持ち続けていることに大変感銘を受けました。

 

皆さんも、新しいコンサートの企画や取組みを模索されることはあると思います。新しいことにチャレンジするとき、失敗を恐れるよりもまずは全力でやり切ることを氷艶の観劇を通して学んだような気がしました。クラシックも既存のコンサート形式だけでなく、どんどん新しい楽しみ方を創っていきたいですね!

 

 


2017-05-24 | Posted in BLOGNo Comments » 

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